佐渡島庸平さんの『ぼくらの仮説が世界をつくる』を読んだ後、自分のなかの「めんどくさい」の基準が、自分でも気が付かないうちに変わっている、ということに気がついた話
ある時からCDをきいたり、DVDをみたりすることが激減しました。
そのことを意識することもなく過ごしていたのですが、本書の一節を読み、ドキッとしました。
「めんどくさい」と思う基準すら変わってきている
そ、それだ。
本書は動画配信サービスHuluとiTunesをあげているのですが、自分にとってはYouTubeです。
画面をタップすれば音楽をきいたり動画をみたりできる状況に、自分が知らず知らずのうちに馴染んでいたことにはじめて気付きました。
文章では表現しきれないのですが、自分が自覚症状なしに自分の認識していない状態に馴染んでいたことに対しては、本当にビックリしました。
(そもそもCDをきいたりDVDをみたりすることが減っていることすら自覚していませんでしたので)
この話の前後に二つの話があります。
・「ヒマ」という感覚が細切れになっている
・「なんでもいい」というのは、世の中のほとんどの人にとっての「本音」
「ヒマ」という感覚が細切れになっていることに関して。
著者は映画を例にあげ、かつては「ヒマだから映画を観に行こう」という感覚だったものが、「予定を立ててわざわざ観に行くもの」に変化していることを指摘します。
そして、最近の人がヒマなときにしていることにスマートフォンをあげ、その時間は5分から15分と見積もります。
(だから「わざわざ」観に行く映画には、「ヒマだから」という表現は使わない)
そのことを「ヒマ」という感覚が細切れになっている、と表現します。
「なんでもいい」というのは、世の中のほとんどの人にとっての「本音」関して。
筆者は、妻に「なに食べたい」と聞かれ、夫が「なんでもいい」と返事をすると、妻に嫌な顔をされる、というよくある光景を例にあげます。
そして、このシーンを人間を理解するのに重要なシーンだと考えます。
つまり、「なんでもいい」というのは、世の中のほとんどの人にとっての「本音」である、と考えます。
そして、最近ではあらゆる「なんとなく(「なんでもいい」を言い換えたもの)」がスマートフォンに集中してしまっている、と表現します。
はい、どちらとも心当たりがあります(笑)
そして、無自覚でした(笑)(笑)
自分の意識に変化が生じている、ということに気がつくこともなく大きな変化を遂げていた、ということに気がつき、本当にビックリしました。
余談ですが、本書に関する記事は前にも書きましたが、その際には今回の話を外しました。
(前回の記事では今回とは別のテーマで書きたかったから)
http://inspirex.hatenadiary.jp/entry/2016/12/24/091827
今回の話はいったん書くことから外したのですが、やっぱり書きたくなったので別記事として書きました。
そして、今回書いたこと以外でも、興味深い箇所が何点もあります。
どこをめくっても発見のある素晴らしい書籍です。